『第一師団は第三十五軍司令官鈴木中将の指揮に属し、レイテ決戦に参加せよ』
レイテへの決戦参加、まさに陸兵の本領である。築城材料はいらない。
弾薬、糧秣だけの身軽になって前進するのだ。任務は確定した。

しかも、急ぐ。積み換えに三日間もかかってようやく十月三十日夜、船団はマニラ出港、直路全速力で突破、昭和十九年十一月一日、名前も位置も知らなかったレイテ島西南岸オルモックに無事到着、直ちに上陸を開始した。

思えば上海出港以来十九日、よくも無傷で、敵潜水艦跳梁の魔の海を乗り切れたものである。
ひとえに海軍護衛艦隊(松山少尉)の慎重、適切、苦心誘導のお陰と言わねばならぬ。

レイテ島は、第十六師団が主力をもってその東海岸に堅固な陣地を構築して守備していた。

フィリピン本土のルソン島に進攻するかに思えたマッカーサー元師の率いる米軍(七師団)の大輸送船団は、セブ島の目前にあるレイテ島の守備手薄とみると、
昭和十九年十月十七日突如レイテ島に進入し,海軍の猛撃をもって第十六師団の陣地を粉砕して上陸を開始した。

米軍の戦闘態勢は、ハルゼー艦隊に護られたマッカーサー軍十五万人の兵士と、百五十万トンの装備、二十三万トンの戦闘車両、さらに二十万トンの弾薬を満載した、実に六百五十隻の艦船軍であった。

その時、レイテ島を守備していた日本軍は、第三十五軍鈴木中将指揮下の牧野中将の率いる、
垣兵団とよばれていた京都の第十六師団、兵力八千人の一個師団だけであった。

かくして第一師団がレイテ島主力兵団として、オルモック湾に上陸することとなった。
時まさに、昭和十九年十一月一日。

そして、その年の十二月半ばを迎えた時には、相次ぐ米軍の猛反撃を受け,ずぶ濡れの雨の中、
五十余日間にわたる血と鉄のるつぼの中で、第一師団総員一万三千人の将兵は、
文字通り勇戦果敢、ついに全滅に近い悲運を招いたのである。

あの緑色に輝いていたレイテ島は、やがて、全島悲劇の島となった。◆


レイテ島・オルモック

香椎丸 8,407屯

金華丸 9,305屯

能登丸 7,191屯

高津丸 5,656屯


上海より、約一万トン級の輸送船【香椎丸、高津丸、金華丸、能登丸】の四隻、数機の飛行機、数隻の駆逐艦でオルモック湾に向かった。
途中、米軍ロッキードの攻撃があったが無事に到着。

昭和十九年十一月一日、第一師団がレイテ島オルモック湾に上陸。
(満州の孫呉→南京→上海→マニラで一泊→レイテのオルモック)

我が第一師団が上陸する前に、第十六師団など他の軍団が米軍と激戦していた。

夜明けと共に、オルモック湾を防衛していた船舶工兵隊の大発動艇により、各輸送船から百メートルほどの距離があった海岸まで物資の輸送が始まった。
行ったり来たり、まるで蟻が物を運ぶようだった。

私も無事上陸したが、突然、南方より「ゴウゴウ」と爆音が響いてきた。
小さく細かい隊列をなした機影が段々と近づいてきたのであった。

我が方の駆逐艦が湾内に煙幕を撒いたが、天高く小さい機影の米軍機は隊列を組み、私たちの上空に爆弾を投下し南の方に去っていった。
米軍は事前に第一師団がオルモック湾に上陸する事を察知していたようだった。

米軍の爆撃をかいくぐりながら、最後の陸揚げをしていた能登丸が爆撃を受け、兵員、騎馬中隊の軍馬、野砲連隊の轢馬など、約六十パーセントほどの積荷を積んだままの能登丸が、一時間ほどでぶくぶくと沈んでいくのが海岸から見えた。

各部隊が四隻の船に分乗していたので、私と同じ中隊の兵員が数人、船と共に沈んでしまったのである。 この状況を目の当たりにして、戦場に来たのだと改めて思った。

すでに上陸していた高射砲が米軍機に向かって「パーン!パーン!」と砲撃したが、弾は米軍機のずっと下方で炸裂し、高射砲の威力は全然効かなかった。

野砲兵第一連隊(玉五九ニ〇)の一個中隊がすぐさま十五糧砲を騎馬六頭に引かせ、第一線の陣地リモン峠に出動した。

我が土田中隊は、三日後より夜間の輸送に従事した。
日中は米軍の戦闘機に銃撃や砲撃されるため、日没から朝方までが自動車での行動時間だった。

毎夜、土田中隊はリモン戦闘司令部の付近まで食料、弾薬輸送に従事した。
私が使っていた自動車は孫呉より貨車に積み込み、南京で軍旗輸送の行動し、上海から輸送船に積み、途中上海を経てオルモック湾で大発艇に積み替え、オルモック海岸のヤシ林の密林に隠していた新車の「シボレー」であった。

リモン峠までの途中には幾つかの河があり、カナンガの橋は木製でこの橋を渡る直前には必ず右手方向より迫撃弾が飛んできた。
最初はどうして弾が飛んで来るのか分からなかったが、後で分かった事だが、現地人のゲリラが米軍の手伝いをしていて、橋の近くに探知機を埋めてあり、そこから後方の陣地にいる米軍に無線で知らせていたのであった。

上陸して数日後、中隊では最初の戦死者が出てしまった。
同年兵の香取君がファトンで敵の迫撃砲にやられたのであった。我々は道路の右側のヤシ林の中に穴を掘り彼を埋めた。東京出身で入隊前は自動車関係の仕事をしていたらしい。

今夜はオルモックから食料輸送だとなると、積み込むのは煙草、乾パン、黒いゴム袋に入った飲料水、溶かして食べる餅のような物であったが皆、心「さわさわ」で落ち着かなかった。
各車ニ百メートルほどの間隔をとり、リモン戦闘司令部へ運ぶのだが、
出発して間もなく、助手の栗原(ヒモでくくってある眼鏡をしているので、大久保彦左衛門のようだった)が荷台に乗り、煙草の梱包の中から数箱取り出したり、
或るときは乾パンの箱からこんぺい糖の袋だけを取ったり、米も二人が充分に食べられる分だけを抜き取り、運転席の座席の下の僅かな隙間に保管したり、石油缶の中に入れて外部に吊るしたりして保管していた。

また、或る時は、野砲隊への弾薬輸送で十糧砲や十五糧砲の弾薬を積載して、日中、米軍機の飛来する合間を見ては、ヤシ林の中にいる野砲の陣地に人力で大砲を輸送していた。(日本軍の大砲は旧式の木車で運搬が難儀、米軍の大砲はタイヤであった)

野砲の兵士が「明日から大砲を撃つので、どんどん持ってきてくれ」と言うので、
「よしきた!」とばかりに翌日の夜に持って行くと、昨日とはあたりがすっかり変わっている状況で、その隊は誰もいず、積んできた大砲をその辺の草むらに降ろして来るような事が多々あった。日中、米軍の偵察機に発見されたのであろうか。

とにかく、米軍との装備の差が歴然である事は明瞭であったが、日本軍が負けるとはまだ夢にも思っていなかった頃だった。


inserted by FC2 system